個人的に「悪霊」はドストエフスキーの作品中でも、最も熱中し読んできた作品です。再読の回数も一番多いと思います。初めて読んだのは大学一年生のとき。それまでに「罪と罰」、「カラマーゾフの兄弟」、「戦争と平和」、「アンナ・カレーニナ」など、知名度において「悪霊」に勝るロシア文学の長編小説を読んでいたけれど、この「悪霊」ほど個人的な嗜好に合った作品はなかったです。簡単にではあるけれど、紹介したいと思います。
・前置き的な序盤こそ面白みにかけるが(ここも再読すると面白くなるから不思議であるが)、中盤以降は破竹の勢いで読み進める面白さであること(中毒性は相当なもの)。これはドスト氏の長編小説の特徴となっているが(三島由紀夫によれば長編に特化した最高の文体の一つ)、悪霊も例外ではない。
・早い時点で共産主義の破綻を喝破した本であること。たとえ共産主義革命がロシアに起こり、そのようなシステムがロシアを支配しても、百年を待たずに破綻すると書いている。ドスト氏は人間の非合理性に着目し、本質的に非合理に出来ている人間が、合理的な共産主義のようなシステムに耐えられるわけがないと考えた。ここらへんは「地下室の手記」に見られる思想と同一の思想と言える。
・上記のとおり、ドストエフスキーは共産主義、あるいはニヒリズムを糾弾しているが、この小説をドストエフスキーがそれらの思想との対決を表明した書と見る向きもあり、旧ソ連時代には禁書となった。このようにドスト氏の作品中でも作者の意図を超えて政治色が濃くなった小説であり、異彩をはなっている。
・近代文学が提示した「最も深刻な人間像」と評されるニコライ・スタブローギンを読み解くことに興味を持ったこと。
・長編ではあるが「カラマーゾフの兄弟」などと比較すると6割~7割ぐらいの分量であり、読了がさほど困難ではないこと。
・人の知性の限界を捉えた小説であり(理性万能主義への早い段階での批判)、現代に生きる私たちにとっても非常に示唆的な書であること。
この小説は色々な楽しみ方ができると思う。従来の封建的な体制(西欧に比較して未成熟・未整備な封建体制)と新興の共産主義の対立という政治的な側面。ロシア土着のキリスト信仰と無神論の対立(無自覚に無神論に堕している知識人も描かれている)。「ネチャーエフ事件」をモデルとした粛清等の犯罪行為。スタブローギンという根本的なニヒリストの解明。
二つ以上の論点について書くのはここではスペースの関係で不可能なので、スタブローギンの概観を通じて、ごく簡単にこの小説のレビューを書きたい。しかし、スタブローギンの理解に極めて重要な「スタブローギンの告白」については冗長になる恐れから触れないで、全体の概観にとどめる。
スタブローギンの父の世代は、西欧ナイズドされた知識人たちが世に出てきた世代である。彼らは芸術、評論、政治活動を通じて積極的に世に出てきた。彼らは母国ロシアの民衆、信仰、慣習などから遊離した根無し草であると言える。そしてスタブローギンはロシアから遊離した知識人たち(この小説ではステパンなどの)の子の世代にあたる。根無し草の知識人たちが構成する「親の世代」が生み出した「子の世代」は、親の世代の特徴を色濃く引き継ぎつつも別の道を歩むこととなる。例えば「子の世代」のある者は共産主義の革命家となった。
一般論的に言えば、19世紀のロシアにおける共産主義の革命家というものは、ロシアの素朴な民衆からあまりに遠ざかってしまっているが、何らかの価値を信じ目的意識を持ち生きている点で、ニヒリストとは呼ばれない(共産主義は宗教を否定しているが故にニヒリズムの典型とする人もいるが、私は違うと思う。理由は長くなるので述べない。)ニヒリストとはニーチェによれば、生きることの無価値を認識しつつも肯定する強さを持ち生きるもの(超人)及び、生きることの無価値ゆえに絶望するもの(弱者のニヒリズム)に分類される。
この小説中には、ニーチェの定義に該当しそうな2人のニヒリストがいる。ニーチェが理想とした「超人」的なニヒリズムを志向するのがキリーロフであり、、「弱者のニヒリズム」に堕したがゆえに死ぬしかなかったのがスタブローギンである。しかし、構図はこのように単純ではない。キリーロフはニーチェの「超人思想」に先駆した相似の思想である「人神思想」を持つが、神を否定した上で自己の完全な自由意思を証明するがために実行した自殺にあたって、我を失うほど恐怖した。結局は自殺するも、それは自殺すると宣言した手前の義務感が混じっており、それゆえに当初の目的たる「完全な自由意思の証明」とは程遠い自殺となってしまった。スタブローギンは「弱者のニヒリズム」に堕しているとは言えるのだが、現実生活においては多くの人に弱者とは対極の幻想を抱かれる。彼を「弱者」と見なすものはない。
スタブローギンは極めて明晰な頭脳を持っているが、その頭で組み立てたいかなる思想も信じることができない。思想とは単に頭で理解するものではない。多くの場合実践を伴う。しかし単に実践することとも違う。その人間に深く根ざしたとき、初めて思想は単なる机上の理屈を超えて、生きた思想となるのだと言える。要は思想は体得するものなのである。スタブローギンは生きた思想を持つための土壌をもてない。
彼は生への執着をも持てなくなるに至る。神も無神論も信じることができず、共産主義をはじめいかなる政治体制も信じることができない。彼にとっては全てが無価値、無意味である。ついには生すら無意味になる。(ニーチェの弱者のニヒリズム)そもそも神を信じない人間にとっては、「死」とは肯定することが極めて困難なものであり、「死」を肯定できないが故に、「生」の濃度は薄くなる。宗教は「死」を積極的に肯定する機能を持つ。人間は「生」の意味、「死」の意味について、もっぱら神に依ってきた。(神を否定した上で「生」を積極的に肯定するのが、ニーチェの「超人」である)
スタブローギンは生への執着を得るために、放蕩の限りを尽くす日々を送った。(キルケゴールの言うところの「美的実存」を実践しようとした。)また、様々な思想を「頭で考え」、「さもその思想を信じているかのように」人に伝えたりした。が、上記のとおりこれらのことは無駄だった。
スタブローギンが人に伝えた思想は以下のとおり。思想を伝えられた(与えられた)側にはこの思想が根付いた。与えられた側にとってこれらの思想の影響は強烈であり、各人がスタブローギンを神のごとく崇める始末である。(各人が描くスタブローギンへの「強者の幻想」)
思想 | 影響を 受けた人 |
内 容 |
狂信的な革命(共産)主義 |
ピョートル |
ロシアにおいて共産主義革命を実現する。この小説のモデルとなった「ネチャーエフ事件」のネチャーエフの立場に近い |
ロシア・メシアイズム (土壌主義) |
シャートフ |
ロシアの民衆、宗教を重視する立場。ドスト氏の土壌主義に近く、作者自身の思想が最も濃く反映されている。また、シャートフは予言されたキリストの再臨(Second Coming)はロシアで行われると考える。 |
人神論 |
キリーロフ |
もし神がいれば人間の全ての意思は結局のところ神のものとなってしまう。人の自由意思は本質的には存在しないことになる。しかし、もし神がいないとすれば、意思は完全に人のものだ。「我意の自由」を証明するべく、我意の究極である自殺を実行する。また、神は死の恐怖・痛みを乗り越えるために人間が造ったものであり、死の恐怖を乗り越えることは神を乗り越えることでもある。神が人の形を取ったキリストとは反対に、人が神を乗り越え人神となる。(この人神論はニーチェの「超人思想」と親近性がある。ドスト氏はニーチェに先んじている。) |
注目すべきは、ロシアメシアイズムと人神論が対極にある思想である点。スタブローギンはこれらの思想をそれぞれシャートフとキリーロフにほぼ同時期に伝えたとされる。ロシアの神を称える思想と、神を否定する思想をスタブローギンは同時に頭の中に持っていたということになる(本来有り得ないような内部矛盾)。そして、スタブローギンはそれらの思想を信じようとした。思想を信じ、体得することは、頭で理解することとは違う。スタブローギンは人を操りたかったのではない。彼は彼自身をも欺きその思想を信じていると思いこもうとすらしていた。もちろん無意味な生に意味を与え、生きる活力を得るために。
思想を与えたられた各人はスタブローギンに多くを期待する。革命(共産)主義者のピョートルにとっては、スタブローギンは革命の先頭に立つべき選ばれた人間である。ロシアメシアイズムをスタブローギンに説かれたシャートフにとっては、現在のスタブローギンが神を失い堕落しているように見える。シャートフはスタブローギンを作中で殴打する。スタブローギンを元あった場所に戻す、つまり堕落から救い上げようとする。しかし、スタブローギンにとっては、ロシアメシアイズムすら、かつて生きる活力を得るために信じようと努力し、そして無駄な努力と悟った過去の遺物に過ぎない。スタブローギンに過去、思想を説かれた皆がスタブローギンに幻想を描くが、スタブローギンはもはや思想から生きる活力を得ることはあきらめている。やがて無意味な生に意味をもたらすことすら、最後的にあきらめるに至る。
(補記) スタブローギンの話から総論的な話に変わるが、この小説中の各思想の中で作者自身の思想に近いシャートフのロシアメシアイズムが、特別な位置を与えられているわけではない。各思想の立場はある意味、平等でありその優劣は問題とされない。小説中の人物の優劣は、作者の思想への距離では決定されない。各登場人物はそれぞれ信じるところを最後まで主張する。作者すら彼らの主張を否定することはできない。これはドストエフスキーの小説の際立った特徴の一つである(バフチンのポリフォニー論)。
また、この小説は先に述べたとおり、19世紀後半のロシアの「親の世代」と「子の世代」の継承及び対立が一つのテーマとなっている。「悪霊」はツルゲーネフの「父と子」を意識して書かれた、ドストエフスキー版「父と子」であると言える。この小説中、ドストエフスキーはこの小説の設定上の作者「アントン君」の言葉をもって、ツルゲーネフの「父と子」を批判している。ニヒリストの代名詞にもなった主人公バザーロフに対しての批判が主となっている。「悪霊」の作品中にはなんとツルゲーネフがパロディー化された人物が登場している(カルマジーノフ)。ツルゲーネフの作品のパロディーとともに、ツルゲーネフその人及びパロディーされたツルゲーネフ(カルマジー ノフ)に強烈な批判が浴びせかけられている(批判の三重の集中砲火といった状態)。このような(気はきいているが)強烈な中傷を持ち込んでいるところからも分かるように、この時期のドストエフスキーのツルゲーネフ嫌いは相当なものがある。
最後に、この小説を理解する&楽しむために非常に役に立つ解説書を紹介します。
ドストエフスキー「悪霊」の世界 清水正 鳥影社・・・読みやすいし読了は容易なのでオススメです。
ドストエフスキー 江川卓 岩波新書・・・新書なので短いが内容は充実している。江川氏ならではの記号論と正教の知識に基づく謎解き。
偉大なる憤怒の書 ードストエフスキイ「悪霊」研究ー. A.L.ウォルインスキイ 著 埴谷雄高 訳 みすず書房・・・廃版であるが、悪霊研究の最高達成。
ドストエフスキーの詩学 ミハイル・バフチン ちくま学芸文庫・・・これは「悪霊」に限定されないドストエフスキー文学一般に通じる解説書だが、ドスト氏の解説書の中でも必読と言えるほどの重要性と影響力を持っている。「悪霊」についての記述も多くあり、読解の助けになるのは間違いない。