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鎌倉 “太平記”紀行

 
銭洗弁天宇賀福神社、通称“銭洗い弁天”として有名な源頼朝が建てた神社。銭洗い弁天という名は5代執権、北条時頼がここで銭を洗うと財貨が倍増すると言ったことによる。
(追記。建立された時期については某筋から異論アリ。昭和時代に八坂大神から独立したものであり、江戸時代の地誌類の書類から判断すると、少なくとも江戸時代までは無かったと考えるのが自然であるとのこと。この神社については私には断言できるだけの知識と資料がないので、正解は分からない。)

 鎌倉には北条氏ゆかりの寺院がいくつもあるけど、この銭洗い弁天はその一つ。いかにも鎌倉といった風景と佇まいの入り口がイイね。山に囲まれた鎌倉にはこのようなトンネルや切り通しがいくつもある。

 ちなみに、北条氏は平氏。「北条」は氏族としての「氏」(うじ)であり、正式な「姓」は「平」(たいらの)。というわけで、頼朝は源氏の棟梁(とうりょう)なのに、平氏と結婚したことになる(足利尊氏もだが)。

 これが間違いの元だった?鎌倉幕府は3代将軍「実朝(さねとも)」で頼朝の嫡流の血が途絶え、執権(しっけん)としての 北条氏(平氏)が鎌倉幕府が倒れるまで実権を握ることとなる。「源平の合戦」というと、奇才・源義経の活躍もあり、源氏の勝利で終わり、平氏は滅亡したこととなっているが、実は鎌倉幕府は早いうちに平氏に乗っ取られたのであった。2代将軍・源頼家(よりいえ)の時代に北条氏は政治的実権を握った。頼家は政治的な実権を奪われ、のちに暗殺されるが、これも北条氏によるもの。

 

  下の写真は銭洗い弁天の中のもの。北条氏と言えばこの家紋(三鱗)。
 
 

 

  

 いたる所にあるこの三鱗の家紋に、北条氏の栄華を感じる。これは平氏の赤が使われているもの。

  

 この北条氏の全盛の前には、100年以上にわたり誰もが屈するしかなかったのだが、そんな中立ち上がったのが、後醍醐天皇であった。

 後醍醐天皇は、八幡太郎(はちまんたろう)義家として知られる伝説の武士、源義家の流れを汲む源氏である(頼朝嫡流ではないが)足利氏と新田氏に挙兵を呼びかけた。

 畿内では既に忠臣の鏡として知られる楠木正成が蜂起して、わずかな兵で北条氏相手にひけをとらずに戦っていた。 

 

 こうして足利尊氏(この時はまだ高氏)と、新田義貞は挙兵。京都の六波羅探題(ろくはらたんだい)を短期間で落とした足利尊氏に対して、新田義貞は山に囲まれた盆地である鎌倉を攻めあぐねた。鎌倉は周囲を山に囲まれた"天然の要塞”なのであった。

 北条氏は、時の執権、北条守時(赤橋守時)をはじめとして、鎌倉の山から盆地へ通じる“7つの切り通し”をよく守っていた。得宗の北条高時も、実際の最高権力者であった長崎円喜(ながさきえんき)も、鎌倉防衛に自信を持っていたことだろう。

 このままでは足利に遅れをとってしまう。

 そんな折、新田義貞がとった策は絶妙なものであった。写真は若者に人気の由比ヶ浜だが、義貞はここから攻めた。潮のひくのを待って、稲村ケ崎(写真に見える岬)から回り込んで、若宮大路に入り一気に鎌倉中心部に乗り込んだ。(太平記にはこのように書かれているが、異論もある。天文学よると、この日に潮がひいたのは確からしいが、真実はどうなのだろうか。ちなみに、太平記には新田義貞が龍神に宝剣を捧げ、その後、潮がひいたとある。もし義貞が潮の満ちひきのリズムを把握した上で、兵たちを鼓舞するために龍神が潮をひかせたように見せたのであれば、すごい頭脳プレー。)

 来るはずのない裏(海側)から敵が来たのを見て、北条氏はもはや勝負があったのを悟った。


 
 

 

 

北条氏終焉の地、東勝寺の跡。

焼けてしまい跡形もないが、ここで最後の合戦があった。
 

 奥に有名な「腹切りやぐら」跡が見える。

 

 

 


 腹切りやぐら。中にはここで散った北条一門を祀った柱が何本も立っている(が、中を撮るのはやめておきました)。

 870人を超える北条一門が自害したというリアルさに、さすがにヒンヤリとしたものを感じる。(ただし、この腹切りやぐらで全員が死んだのではなく、東勝寺全体で870人を超える人が自害したということだろう。)

 北条高時が鎌倉から落ち延びるのを潔しとせず、ここで自害することになったという。ちなみに、上記看板にある「宝戒寺」(ほうかいじ)とは、後醍醐天皇が足利尊氏に命じて、北条氏の冥福を祈るべく建てた寺。勝負がついたあとはノーサイド。もはや敵も味方もない。

 内管領として権勢を誇った長崎親子もここで散った。

 「おごれるものも久しからず」という言葉が有名な「平家物語」に似た、栄枯盛衰の物語が太平記にはある(太平記は平家物語の影響を受け書かれたとも言われる)。

 北条氏の滅亡も、後の南北朝動乱、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)という大乱の序章に過ぎなかった。“太平”の世をつくるためには、北条氏が犠牲になるだけでは足りなかった。楠木正成、新田義貞、南朝方の多くの武将。これら皆を倒していった足利尊氏は、ついには弟、足利直義(ただよし)までも毒殺し、実の子である足利直冬(ただふゆ)までも討伐した(しかし直冬は行方をくらませた)。そんな足利尊氏を“南朝視点”で書かれている古典・太平記は厳しく断罪しているが、その後、応仁の乱にいたるまで、室町幕府の治世下において、まがりなりにも“太平の世”を迎え、北山文化などの文化が花開いたのもまた事実。

 

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